jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

周囲や相手を意識しない人--集団意識はヒトの本質だと思うのだが

歩道で向かってくる人が絶対に側を譲らないことがある。たいていその人1人で歩いており,自分側は数人が同じ側を歩いている。向かってくる人が譲ってくれれば,自分側の数人はそのまま真っすぐに進めるのだが,相手が譲ってくれないので全員が道を譲らなければならなくなる。「向こうの方が人数が多いから,こちらが譲ろうか」という意識がまるで働かない。こういうことにいつもモヤモヤしている。譲るが勝ち - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2019/9/6 にも同じことを書いていた。

 電車の中や駅のホームでも同様である。ここではカバンの扱いを問題にしている。カバハラ(カバンハラスメント)--本当に気がつかないものなのか - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/12/16 に書いたが,背中に背負ったカバン,お腹に背負ったカバン,そして背負い直すときに周囲を見ずにいきなり振り回すカバン,そこから延びるヒモの先がまるでムチのように当たるカバン・・・。周囲のことに対してまるで意識がない。

 クルマの運転でも同様である。特に対向車のライトについては,何度も書いた。クルマのマナーをもう一度 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2020/12/30。ただ眩しいだけなら眼を細めてやり過ごすしかないが,そのライトの中に歩行者が入ってホワイトアウトすることを,もっと強調すべきだと思う。自動ブレーキシステムもカメラの映像を使っている以上,対向車のライトで幻惑されれば認識率は確実に落ちる。

 日本体育大学の「集団行動」は有名だが,これはパフォーマンスである。しかし,出来上がるまでには訓練が必要であり,それに耐える体力と精神力も築かなければならない。指導,あるいは命令に従って整然と行動することから,ほとんどの日本人は離れてしまった。社会性がなくなったと言えるだろう。

 筆者の子どものころは,学校で行進練習があった。運動会では校庭を1周行進してから列に並んだ。行進曲は普通に使われており,頭の中にそのリズムは刻み込まれている。しかし,今の子どもは行進練習をしない。高校野球の入場行進も,リズムがバラバラである。木村拓哉主演のドラマ「教場」のプロモーションビデオの中でも,警察学校での行進の場面でリズムがバラバラなのを見て,愕然とした。内戦で揺れるスーダンからの日本人救出に向かう自衛隊員の行進も,バラバラだった。

 リズムも練習によって身体が覚えるのだと思う。筆者は行進曲の一定のリズムが身に染み付いているので,階段でも基本的に同じペースで上がることができるが,最近の人はノラリクラリと歩いて,途中で遅くなったりするので,ぶつかってしまう。

 筆者よりさらに年配の世代は,第二次世界大戦の兵役がらみで行進を叩き込まれたと思う。これはこれで,中国や北朝鮮の軍隊の一糸乱れぬ行進を見るたびにゾッとする。日本も同じような時代があったからである。

 スマホを眺め,耳にはイヤホンを差し込み,そしてハイテンポの曲ばかり聴いていれば,一定のリズムで歩くことはできないし,身体にリズムもつかない。目と耳が自分の内面を向いていれば,周囲や相手を意識することはない。

 周囲を意識しながらでも自分の好きな音楽や映像を視聴する方法として,骨伝導イヤホンや耳を塞がないイヤホン,そしてARメガネなどの利用は考えられる。骨伝導イヤホンについては,以前レポートした(Bluetooth骨伝導イヤホンを使ってみた--万能ではないが耳への負担がないという安心感 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/1/10)。電車の中では騒音が大きすぎて使い物にならないが,静かな環境で音楽を聞きながら周囲の状況も把握できるため,愛用している。耳を塞がないイヤホンはまだ試していないが,ほぼ同様だろうと考えている。ARメガネもかなり認知度が上がってきて,新幹線の中で大画面で映画を鑑賞したり,仕事をしたり,という試聴会も開かれたようだ(歩きスマホしたければARグラスを買いなさい--キャップのヒサシにスクリーンを付けるアイディアで盗撮グッズ似から逃れるアイディアを提案 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/11/5)。

 しかし,こうしたグッズは[周囲][相手]を意識する人にはいい選択肢になるが,意識しない人にはジャマでしかないから,結局は一部にしか使われないだろうと思われる。スマホはあらゆる年齢層,あらゆる人にとって拡散したが,それは「自分の世界に没入できる」グッズだったからに違いない。

 社会との関わりを持たない人が増えている中で,[周囲][相手]を意識しろ,というのはもはや無理なのかもしれない。マナーやルールはなくなり,現実世界からネット世界に入り込み,自分の欲望のためにだけ行動する人がヒーローと呼ばれ,カリスマと呼ばれ,そこにただ周囲から人が群がるという構図で,社会が崩壊して行っているのを感じる。

 テレビで育った筆者だが,そこには「スイッチを切る」という手段が存在した。テレビのスイッチを切れば,自分の時間が戻ってくる。学校や家,友達などとの社会と現実で向かい合わなければならず,おのずと次の行動を取ることができた。

 現代社会は,おそらくこの「スイッチを切る」ことができない社会なのだろう。スマホいじりやイヤホンによる音楽視聴など,常に自分の内面ばかり向いていることができるため,社会性も集団意識も育たないのではないか。

 逆に「スイッチを入れる」目標もなくなっている。「東大に入る」ことを目標にスイッチを入れて勉強したとしても,東大に入った途端に次の目標がなくなってしまうのが現状である。かつては,官僚でも大手企業でも研究者でも,東大に入ることで次の目標への展開が広がっていたが,今や東大に入っても,Youtuberやお笑い芸人,クイズ芸人などしか活躍の場がない。官僚も教員もビジネスマンも,[周囲][相手]を意識して仕事をしなければならないという単に「しんどい」仕事だからである。そういう意識が育ってきていない人が,社会を支えてくれるとはとても思えない。

 看護師や介護士など,相手を気遣う仕事も,「しんどい」仕事であり,なおかつ収入レベルも社会的位置づけも低い。せっかくコロナ禍でエッセンシャルワーカーの重要性が意識されたにもかかわらず,コロナへの意識低下とともにまた忘れ去られていくのだろうか。

 人を育てる教員,保育士,そして弱者を支える看護師や介護士の社会地位を上げ,収入も上げることをすぐにでも始めないと,日本社会は崩壊するだろう。[周囲][相手]を意識し,お互いに支え合う社会は,どこに行ってしまったのだろうか。