アリとキリギリスの話はご存じだと思う。越冬のための食料をコツコツと集めて貯め込むアリに対して,キリギリスは歌って楽しんでいたために,冬の寒さで凍えてしまう,というストーリーである。
アリやハチは,社会性のある生き物として有名である。生まれながらにして王様アリ,女王アリ,働きアリ,軍隊アリと役目が決められている。その役目をきちんと果たし,一生を終える。チーム一丸となって,冬を越えることができる。
キリギリスは単独行動である。集団で行動するイナゴだが,社会性はない。ただ集団行動しているだけである。
ヒトは社会性のある生き物である,はずなのだが,ここに来て「人類は社会性が消えてしまったのでは」と思わせる出来事が続いている。
個人が個人の利益のためにだけ行動するという世界になってしまった。家族も作らない,会社にも行かない,一日中パソコンの前に座って,画面を通してインターネット経由でバーチャルな世界でのみ活動する。自らも仮想的な存在であるアバターと化し,自らが主役となって楽しみ,自らのために金を稼ぐ。世の中に役に立つことをしている,と言っても,それはクイズの回答をするような感覚のエンタテインメントに過ぎない。
インターネットがかつて,軍事目的の裏ネットワークだったことを今知っている人はまずいない。民間に開放された時点で勝手に使い始められた。道路を自転車からトラックまでまるで無秩序に走っているようなものかもしれない。暴走するヤツもいれば,ゴミを撒き散らすヤツもいる。逆走するヤツもいる。まるで無秩序である。警察もいなければ罰則もない。走った者勝ちである。
この最たるものがYoutubeでありtiktokである。かつて個人からの情報発信と言えば,パソコン通信の掲示板というコミュニティだった。同じ目的を持った参加者が基本的にテキスト情報で情報交換する場だった。いわば趣味の集まりだった。しかし現在は,不特定多数が情報にアクセスでき,数千人や数万人といった規模の情報発信の場になった。その情報拡散効果を見込んで,アフィリエイト広告が横からサポートし,情報発信がお金になるようになった。これが,普通の会社勤めで得られる程度,あるいはそれ以上の収入に膨らみ,もはやアリのようにコツコツと働いて収入を得るのではなく,キリギリスのように自分の趣味だけで収入が得るのがえらい,という認識に変わった。つまり,働いて時間を売って収入を得るという考えがなくなってしまったのである。
団体行動,集団生活がうまくできなくなっている人が増えたように思える。江戸時代は「長屋」というコミュニティーがあり,昭和世代は「団地」と呼ぶアパートでのコミュニティーがあった。アパートの1棟ごとに自治会があり,回覧板を回し,イベントも行うような共同体だった。昭和の終わりごろ社会人になった筆者は,「マンション」と呼ぶ集合住宅に入ったが,隣同士すら付き合いはなく,自治会もなかった。その後,平成から令和にかけて一軒家に住んでいるが,地域の自治会に入らない家があることにビックリしている。幸い,筆者宅のある路地は全宅同じ自治会に入っているし,会話も成立するが,その路地を出たところの家人とはまったく付き合いがない。日常のゴミ収集場の利用や災害時の連絡など,自治会というコミュニティーは重要だと認識した(夏祭りや運動会に日本の良さを改めて感じる--地域自治会の力は防災にもつながると信じる - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2024/7/28)。タワーマンションに至っては,単なる住処の物理的な集合体であり,しかもそこに入る人たちは高収入なセレブだろうから,社会性など期待できなくなっていると思われる。
日本のトップが揺らいでいる。リーダーシップが取れる人が不在なのを感じる。昭和天皇という心の拠り所がなくなった戦後,平和復興のための技術開発とモノづくりのために企業という組織での集団行動によって個人の収入も上がり,生活も楽になった。そこから,「カネ」だけに価値を求める層がマネーゲームで一攫千金を狙い,現在は国までもが「投資」という名のマネーゲームを推奨している。企業組織が弱体化し,人材が固定化せずに流動してしまうため,結集力もノウハウの蓄積や伝承もできない。方向性を失った組織が,ハラスメントの温床になる。
戦後,豊かになった日本が世界貢献し,経済を発展させ,生活を豊かにし,貧困をなくし,飢餓をなくし,病気もなくす,というのがシナリオだったはずなのだが,オイルショックやリーマンショックなどで経済が破綻し,世界に対する発信力がなくなった。その分を,財閥の韓国,マネー力の台湾,そして中央集権の中国が組織で日本に勝利した形である。その後も,日本の集団力,組織力は弱体化を続けている。その原因がスマートフォンにあると感じる。
何度も書いているが,スマホに魂を吸い取られているように思える。四六時中,歩いているときすら,スマホの画面を見,耳にイヤホンを付けている。周囲のことなど気にしない。
かつては,テレビが子供に悪影響を与えるとして家の中で視聴時間が制限されたりした。電源スイッチを切ればすぐにやめられたのである。時間を拘束される社会人にとってありがたかったのが,タイマーによるビデオ録画予約だった。これも日本発のVTRが世界を席巻した。しかし,インターネット時代になって,ビデオはネットアーカイブでいつでも見ることができるようになった。当初は,レンタルビデオで借りられたような映画作品やドラマからスタートし,現在は通常の番組まで見逃し配信がされている。視聴もテレビだけでなく,パソコンやスマホでいつでもできる。かつてのVTRがビデオテープからDVD,ハードディスク,Blu-layディスクと進んだが,いまや留守録をする必要すらなくなっている。
テレビ番組が視聴時間を決めることで,1日の時間の使い方にもメリハリを付けることができたが,現在は1日中,自分の都合で自分の見たいコンテンツを見たり,ゲームをしたり,マネーゲームをしたり,さらには収入を得るための行動すら,スマホで完結しようとしている。個人ベースですべての時間が左右される。社会性の破壊がさらに加速しているのを感じる。
50年近く,メディアの仕事に携わり,情報発信を続けてきた筆者にとって,人生最後にできること,すべきことが見えつつある。賛同者もできた。はてなブログで自分の考えをまとめることで,考え方のブレも修正できてきている。あとはどうやって行動を起こすか,という段階にきている。せめてまず,この大量のブログ内容を読みやすくまとめ,社会性の重要性を世の中に問いたいものだと思っているところである。