jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

自分の場所と道具を持つ幸せ--これは一種の贅沢かもしれない

振り替えってみると,筆者の人生で“借り物”だったものはほとんどないことに気づいた。生まれた家も親の持ち家だった。高度成長期のど真ん中であり,買うものといえばまず間違いなく新品だった。学生の時の下宿,社会人になって1年目の下宿は,もちろん間借りだったが,それ以降は親の援助も受けながら小さいながらも新築マンションで独身時代を過ごし,家庭を持ってからは一軒家を構えて現在に至る。クルマも,兄が乗っていた最初の中古車以外は,新車での代替わりである。中型バイクはさすがにお試しで乗り始めたので中古車だった。非常にシンプルなデザインで周囲にも同じ車種はなく,腰を痛めるまでの5年間だが,満足のいく買い物だった。

 社会人になって1つの会社に約30年勤めた。居場所がなくなって早期退職し,1年の浪人後いったん就職,そこは3ヵ月しか持たなかったが,また半年後に今の出版社に就職した。その後,この出版社とは個人事業者として業務委託を受ける形となって在宅で仕事をし,5年経過して現在は契約社員という形に戻って出勤している。

 仕事をする場合,会社でも自宅でもいいのだが,自分の席があって自分のパソコンが使える形は,筆者にとっては普通に思っていた。子供のときから,家に片隅に自分の勉強机を置いてもらい,勉強できた。個室ではなかったが,自分の空間として好きに使うことができた。今は一部屋を占有できるありがたさが身に染みる。 

 しかし,平成,令和の現在,自分の決まった居場所のある人はどれだけいるのだろうか。60%が非正規雇用で,自分が自由に使ったりモノを置いたりできる席が用意されてない人も多いのではないだろうか。

 筆者のオフィスの机は,本や書類が山積みになっている。月に1度ぐらいは多少整理して不要な書類を廃棄しているが,なんとなくコクピットのように快適な空間を作っていると思う。自分の机として与えられているので,自由が効く。これがフリーアドレスだったら,パソコン1台を持ち歩くしかなく,落ち着かないだろうし,わざわざオフィスに行かなくても,自宅でも,喫茶店でも仕事ができるというもので,落ち着かない。

 クルマもずっと自家用車である。レンタカーは1日ぐらい専有できるからいいが,シェアカーは15分とか30分とかのために使うのは,なんとなく気持ちよくない。

 我が家のペットが不治の病になり,筆者の墓が関西にあることに不便を感じて,墓じまいしたあと,地元に小さいながらも新しい墓を作った。ペットと一緒に入れるお墓である。筆者の骨もそこに収めてもらう手筈になっている。最後の自分の場所を確保したというわけである。これも,今となっては贅沢なのかもしれない。

 子供のころから,食事はお袋の味で育った。独身時代は,ボーイスカウトでの経験を生かして自炊生活だった。仕事での付き合い以外は,家でマイペースで食事を取った。結婚後は,カミさんの手料理をいただいている。今も基本的には家族で家で食事をする。外食や店屋物は特別な日である。

 しかし見方を変えれば,自分の家の味があることは最も贅沢なことだと思えるようになった。外食で贅沢な思いができるかもしれないが,その味はそこでしか味わえない。何万とある店の中で,その味が気に入るかどうかは賭けである。そんな賭けにきゅうきゅうとするより,いつも安定した家庭の味があることは,実に贅沢なことだと思えるようになった。

 自分のモノを持てることは,人生で一番の贅沢なのかもしれない。