jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「自粛した」人と「自粛させられた」人の違い

緊急事態宣言が解除されて、人々の行動が活発になってきた。自粛期間中、「すごくストレスを感じていた」とインタビューで語る人も多い。

 街中に人が増えたことにより、緊急事態宣言発令中に確保できていたソーシャルデイスタンスは取れなくなった。海外のように歩道を一方通行にすることもないから、肩がぶつかるほどのすれ違いも日常に戻ってしまった。

 マスク着用率も確実に下がっている。60%ぐらいという感覚は間違いないだろう。マスクなしの談笑も普通に行われている。

 自粛から自衛へと切り替えたが、マスク着用なとの「新しい生活」に馴染めない人との共存は、正直、ウイルスとの共存よりも厄介だ。仕方がないので、自衛の二重策として、とうとうフェイスシールド付きキャップとマスクを着けての出勤を試みた。

 そこで考えたのが、「なぜ新しい生活をしようとしないのか」である。「自覚」を呼びかけたが何となく空しく響いていた理由に思い至った。

 それは緊急事態宣言の発令期間中に「自粛した」のか「自粛させられた」のかの感覚の違いではないだろうか。

 「自粛させられた」と思っていた人は、解除によって単純に元の生活に戻しただけである。したがって「新しい生活」に違和感や嫌悪感を抱くだろう。もちろん、業種によっては廃業にまで追い込まれた人たちがいる。生活の場を失った人たちもいる。簡単に受け入れられないという気持ちもわからないわけてではないが、世の中はすべて繋がっており、協調、協力もまた人間社会に欠かせないものである。

 ちなみに、世の中には「自粛しなかった」人たちも少なからず存在する。規制のない県に行ってパチンコを楽しんだ人たち、文字通りの濃厚接触の歓楽街で楽しんだ人たち、そしてテレワークの検討もオフィスの間仕切りもせず、出社前提で社員を働かせ続けたブラック企業の経営者たち。結局、被害を受けるのは、感染経路がわからないまま感染させられた人たちである。