jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「集団行動」が取れなくなった人類

「群れろ」という本がある。生き物は群れになることで、生き残ってきた。

 人間も群れで行動することが多いが、動物の本能的な群れづくりと違って理性に基づく群れの作り方である。

 群れからの離脱は、意識的である。損得で判断される。ある意味で安定している群れからの独立は,冒険であり,チャレンジである。新しい土地に移ったり,新しいことを始めたりする。

 一方,群れとして行動するばあいは,同じような行動を取る集団行動を本能的に取ることが多い。同じ方向に同じ間隔で同じペースで移動する。道や地下街を歩いたり,電車から降りて改札口に向かう人混みでは,基本的に同じペースで移動することで,無用な衝突を避けることができる。

 しかし,どういうわけか,この同じペースが取れない人が増えているのを感じる。身体が悪くてゆっくりしか歩けない人は仕方がないが,目で肌でお互いの距離感を保ちながら歩けるのが,人ではないかと思うのだが,なぜだろう。

 一つは,歩きスマホが原因である。これだけ,歩きスマホはぶつかって危険だからやめましょう,と放送されているにも関わらず,歩いている人の1割は歩きスマホである。まったく迷惑なことである。

 そもそも,歩きながらスマホで見る価値のあるものなどあるのだろうか。それほど1秒を争う必要があるのだろうか。株や為替の投資をやっているのならともかく,多くの歩きスマホは,ゲームやマンガである。今,歩きながら見なくてもいいようなものである。意識はスマホに吸い取られ,視覚も肌感覚もなく,ただゾンビのように歩いている。

 もう一つは,本当に集団行動の本能を失ってしまっていることである。「集団行動」と言えば,日本体育大学の名物であるが,渋谷のスクランブル交差点でお互いにぶつからない日本人はすごいと言われているが,他人とのコミュニケーション能力を失いつつある日本人は,集団行動が取れなくなってきていると思う。

 1964年の東京オリンピック日本選手団の入場は,実に美しかった。スポーツに秩序があった時代である。柔道も当時は美しかった。一本勝ちすることが基本だった。

 今のオリンピックの入場行進は,いったい何だろうか。ダラダラと歩いているだけ。柔道も単なる力による格闘技に成り下がってしまった。

 普通に音楽に合わせて行進する,という教育が,何だか強制みたいに思われて反対する人たちが増えて,行進の訓練もなくなった。「行進曲」というジャンルがなくなり,おじさんには歌えない曲ばかりになってしまった。

 終身雇用性が崩壊した就職状況においても,企業の集団としての強さが発揮できなくなった。個々の人の能力を単に発揮させるだけでなく,つないで固めて力にする,という強みがなくなった。ならば,個々の個性が通用するかと言えば,そのような教えられかたもしていないので,行き場を失ってしまう。アメリカや中国の後塵を拝してしまう理由である。

個性的なのはお笑い系タレントとアニメ,そして自虐的な映画。何とも情けない日本文化である。個性のスケールがあまりにも小さすぎる。結局は日本ガラパゴスになって,世界から取り残されてしまうのではないだろうか。

 改めて,集団行動を日本パワーにするという選択はないのだろうか。中途半端な個人主義は,結局どっちつかずになってしまうと思う。戦争は当然のことながら肯定しないが,令和の古山祐一によるみんなで合唱できる歌の登場を期待している。