jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「ディール(取引)」が先に立てば法律も常識も効かない世界に--秩序のある「組織」が崩壊へ

日本は法治国家だと信じてきたのだが,その法律が音を立てて崩れつつあるのを感じる。

 人間は1人ひとり,体格も違うし考え方も異なる。それが個性であり,価値を生む源泉でもある。しかし,動物と違うところは,他人と共同で社会生活をする必要があると思われることである。

 しかし,考え方が異なる以上,どこかで意見が食い違う。その許容範囲を定めて,一定の範囲の行動は自由にしても,その範囲を越えたらダメということにする,という約束事が,法律である。法治国家とは,基本的に国民のさまざまな行動を法律という枠で規制する国という組織である。

 国と国の間で,許容する基準が異なり,これが衝突の原因になる。そこでも,許容できる範囲を定め,条約という形でお互いが納得する形を取る。これによって衝突を避け,平和的な共存を図る。地球全体の人類が生み出した知恵である。

 しかし,その秩序の枠を越えようとする行動が頻繁に起こる。法律を犯す行為であれば,それは「犯罪」であり,犯罪に対しては法律に定められた処分が定められている。

 ところが,その法律の解釈も人によって異なる。ある者は法律違反だと判断し,別のある者は法律の許す範囲だと主張する。ダメなものはダメ,という自己抑制ができなくて犯罪を犯したとしても,それを違反ではないと主張する可能性がある。これが「弁護」である。

 ウクライナ紛争をめぐって,紛争開始から3年経過した2025年2月末に,アメリカのトランプ大統領とロシアのプーチン大統領,そしてウクライナのゼレンスキー大統領の間で,さまざまな駆け引きが行われた。それぞれお互いの立場,主張があり,法律も異なる国同士,譲れないところから始まった紛争である。そこを「停戦」という1つの目標に向けて発せられたのが「ディール(取引)」である。2025年3月9日時点では,アメリカがウクライナに武器供与することと,ウクライナの鉱物資源の開発権限をアメリカに譲渡することが,「停戦」「平和」を進めるための取引の条件カードとして提示されている。つまり,ディール(取引)は“超法規的措置”ということができる。

 しかし,一般経済における取引も,ある意味では条件闘争である。お互いがウィン・ウィンの関係になるか,衝突を避けるか,といった交渉は,ときには法律の穴をつくことになる。また,価格交渉になってくれば,表面的には正常な取引に見えても,その裏で関連会社に対して不法行為を働いていることもある。そこも表面的には契約が成立していても,場合によっては裏帳簿なども作成され,法律から逃げていることもありうる。

 世の中,自動化やコンピュータ化が進んだが,これまでは人がプログラムした範囲でしか動作しなかった。いわばプログラムはコンピュータにとっての守るべき法律であり,人がプログラムする以上のことはできない構造になっていた。しかし現在,そのプログラムの枠を拡大,あるいは取り払って,何でもできる自動機械やコンピュータが出来上がってきている。法律違反であっても,プログラムの中の数字をわずかに変えるだけで簡単に枠を越えることもできる。さらに生成AIや,レベル4の自動運転など,機械やコンピュータ自身が自分で判断して動作を決めるように進化してしまった。これから何が起きるか,予想もつかない。

 さらに,インターネットという表向きのネットワークの影で,バーチャルネットワークという無秩序,無法地帯が広がるようになった。ここでは,一切の歯止めが効かない。不正の温床になっている。不正に取得した財産も,マネーロンダリングなどを通じて正当化される。ここでは法律も筆者的な一般常識ももはや通用しない。ディール(取引)が成立することで回って行ってしまう。そこには,秩序も組織も存在しない。

 著作権も,その所有者の死後50年で権利はなくなって自由に使えるようになるのだが,では勝手に使えないかといえば,勝手に使うことはできる。それが権利侵害だと言っても,事前に止める方法はない。後から損害賠償手続きをできたとしても,すでに流出した著作物の情報が,拡散しないという保証はできない。

 枠組みを決めて,お互いがその約束を守る,というルール作りが人類の知恵の1つだったはずだが,そのルールを越えるための「ディール(取引)」がありえるのなら,法律や約束を守った人が損をすることになる。

 義務を怠り,権利ばかり主張し,取引が成立したとばかりに勝手な行動をするのなら,それは「組織」の崩壊である。国という組織,企業という組織,学校という組織,そして家庭という組織のいずれもが,今,それそれが自由に動いているように見える。法律に従って行動している人々が,バカを見るだけでなく,カモにされて搾取される結果になっている。そこを救済する法律もまた,ザル状態で救いになっていない。

 法律は,できた瞬間から古くなり,時代に合わなくなっていく。しかし,その枠を守ることが組織の原則であり,ディールばかりで話を進めていけば,秩序も組織も崩壊していく。

 政治家,法律家はもとより,教育界,家族,そして個人に至るまで,まず法律順守を前提にしないと,世の中が回っていかない気がする。法律の枠に入らないケースで裁判を含めたディールが行われているとすると,それは社会の崩壊でもあると感じる。「正直者がバカを見る」世の中は,回避したいものなのだが,結局はカネと権力を持った方が,人生の「勝ち組」となってしまうのだろう。差別はなくならないのだろうか。