jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

可愛そうな“捨てられマスク”

新型コロナウイルスによるマスク必須時代がやってきた。以前にも書いたが,筆者は2002年5月のSAASウイルス騒ぎ以来20年近く,外出時にマスクを着用している。

 「愛用」している,と言ってもいい。元々は,電車の駅のエスカレーターのところで朝の日差しの中に舞い上がる膨大な量のホコリがショックで,マスクをしようと思ったのが発端である。SAASの時期とも重なっており,夏場でもマスクを着けることを心がけているのである。

 また,家族に花粉症のメンバーが3人もいる。タモリ氏のように60歳を過ぎてから花粉症になった人もいる。花粉のアレルゲンがある程度身体に貯まり,その限界を超えると発症するというので,花粉の時期は特に気をつけて隙間ができないように着用してきた。

 こういうマスク愛用者から言わせると,道端に使い捨てマスクが捨てられているのを見るのはとても心苦しい。なぜここに捨てられているのか,と考えてしまう。

 たまたま落ちたとは考えにくい。意図的に捨てられたとすると,不要になった,ということなのだと思われるが,道端に捨てるその神経が分からない。

 鼻をかんだティッシュペーパーなら,道端に捨てる人はいるかもしれない。もちろん,道端に捨てるなんて言語道断だが,鼻をかんで汚れているので,捨て場所に困ったから捨てた,という流れは理解できなくもない。使い捨てマスクも同じく,何となく汚れたから捨てた,というのだろうか。

 もし,きれいなマスクだったら,まだ問題はないが,咳やくしゃみを受け止めたマスク,あるいは電車で他人の咳くしゃみにさらされたマスクなら,そこにウイルスが付いていてもおかしくない。

 外出先から持ち帰ったマスクは,気になる人はすぐに捨てることが推奨されている。その際は,マスクの外面に触れないように耳ゴムを持って外し,そしてゴミ箱で他のゴミと触れ合ったり,付いたウイルスが撒き散らさないように。ビニール袋に密閉して捨てることが勧められている。

 外で捨てられているマスクは,こうして家の中に持ち込むことを拒否するために,外に捨てる,ということなのかもしれない。それはマスクに対しても失礼ではないのか。マスクに付いたウイルスが,ひょっとしたら撒き散らされて二次感染を引き起こすかもしれない,ということを想像できないものだろうか。もちろん,ゴミを捨てることが景観に対してマイナスであることもある。事程左様に,ゴミを道端に捨てる人の神経が,正直理解できない筆者である。

 もちろん,道端にタンやツバを吐き捨てる人も認められない。あまりにも汚い。他の人のことや,歩道を散歩するペットのイヌのことさえ考えてくれていない,と思ったりする。

 道端に捨てられるものは,使い捨てマスクであれ,ティッシュペーパーであれ,空き缶やペットボトルであれ,許されない行為である。いずれも,自分たちの不具合をサポートしてくれた末の不用品であるが,そこに捨てずにきちんとゴミとして処理をすべきではないのか。

 昔,小学生のころからボランティア活動に熱心な団体に属していた。主にハイキング道のゴミ清掃や,街中のゴミ清掃を定期的にすることがあった。当時は,空き缶とタバコの吸い殻が主なゴミだった。そのため,それほど汚いという印象はなかった。現在のゴミは,実に汚い。見た目も汚いだけでなく,病原菌などの巣窟になっている。とても手でつまんで掃除をする気にならない。したがって,ゴミが落ちていても,だれも処理されない。また,ゴミを捨てるゴミ箱も近くにはない。いつまで経っても放置されたままである。

 マスク着用人口が一気に増え,当然捨てられるマスクの数も激増している。道端に使い捨てマスクが目立つのも仕方がないかもしれない。

 でも,見た目の汚らしさ,清掃をする人の立場に立ってみれば,道端に捨てるという選択はないのではないか。

 シンガポールは,街中でゴミを捨てれば罰金が課せられる。日本に来た海外の観光客が「日本はきれいな国で,ゴミ一つ落ちていない」とよく言われるらしいが,これは誰かが海外の人に言わせているのではないのか。都会のカラスが食べ散らかす生ゴミ,繁華街の1本裏道のゴミゴミした様子。とても「美しい国」とは言えないのではないか。「勤勉で礼節」というのも,どこでそういうイメージを表現したのか,まったくもって理解できない。

 ゴミが街中にあふれる国,日本。使い捨てマスクがそれに拍車をかけている今の日本が本当に情けなく感じる筆者である。