jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

塾教師はテクニックで務まるが,公立学校の教員は生半可では務まらない

筆者の自宅の近くに福祉作業場がある。さまざまな障害を持った人が働いている。パリのパラリンピック2024も終わったので,その言葉を使えば知的障害のある人が主に働いている職場である。スポーツもそうだが,仕事に専念することで自分の持っている力を最大限発揮できれば,本人にとっても周囲にとってもベターである。

 しかし,朝から夕方まで,決められた時間の間,集中力を持続することは,健常者でもなかなか難しいのに,障害のある人にとってはより困難と思われる。さまざまな予想外の行動や言動が起きる。指導する人たちもなかなか大変そうである。

 正直,いろいろな話を聞いていると,学校,特に公立学校の先生もなかなか大変なようなのである。

 義務教育という国民の義務が憲法で定められているため,その受け皿である公立の小中学校にはあらゆる環境で育った子供が就学してくる。筆者が子供のころは,公立学校は子供の9割を受け入れ,一部の本当に裕福な家庭の子供が私立学校に行く,という感覚だった。

 ところが現在は,裕福な家庭だけでなく,ごく普通の家庭の子供も,無理をしてでも「お受験」をさせて私立学校に行かせる傾向にある。子供の3割はこの数字の中に入るだろう。目的は有名大学に合格するだけの学力を付けさせることであり,そのための投資である。お受験に合格した子供は,自動的に受験戦争の流れに乗せられて,大学を目指すように仕向けられる。一生懸命勉強すること自体は悪くはないし,学校という社会の中での人間関係もあるから,社会性に問題が起きることもない。ただ,世の中全体が見えなくなってしまう危険ははらんでいる。

  これまでは義務教育の中心的存在だった公立学校が,裕福でない家庭の子供と,勉強に向き合ってこなかった子供も含めた「その他7割」の子供の受け皿となっている。

 一時期は,「ゆとり教育」と称して,この「その他7割」の子供の平均,あるいはボトムに合わせたレベルの教育を与えることで,「落ちこぼれ」る子供をなくそうという教育まで行われた。平均の成績レベルが一気に下がる結果となり,現在は元のレベルに戻されている。

 多様性が重視される世の中となり,一律的な教育ではなく,個々の子供に寄り添った教え方をすることが教員には求められるようになった。その結果,体罰が違法となり,指導がイジメと言われるようになり,子供が勝手気ままな行動をしても止められないような実態が生まれているという。

 学校という集団生活の中で,先生が教える人,指導する人,生徒が教わる人,指導される人,という構図ができるためには,学校がそういう社会であること,また勉強によって新しい知識を得る場であること,をまず親が子供に教え,送り出してあげるべきだと思うのだが,正直,今の親は子供に関わっている時間が少なすぎる。さらに言えば,親世代がすでに子供のころに,十分な愛情を注がれておらず,ある意味でネグレクトされて育った世代に当たる。その世代が親になったとして,子供に十分な愛情を注げていない。何しろ,親世代が自分たちが生きるのに精いっぱいで,世の中に翻弄されてきた世代である。自分の子供に人生をどのように教え,伝えていけばいいのか,分からないのではないか。

 子供に真正面から向き合えなくなった親が,子供に与えてしまったのがスマホやゲームである。逆に,親世代そのものが,コミックで育っており,リアルに向き合えずにバーチャルに逃げてしまっている。スマホやゲームというバーチャルな世界を,リアルと同レベル,あるいはリアル以上に心酔した結果,リアルから逃げてしまってもそのまま何も言わない。そして,学校というリアルな社会生活が始まった途端に起きる子供の反応に対して,親自身ではなく教員にその責任を押し付けるのである。

 親2人で子供1人を育てるのも,並大抵の苦労がある。その段階ですでに降参して育児放棄をする親もいる。その手に負えない子供が学校に集まった結果,教員1人で40人もの生徒を指導するなど,しょせん無理な話なのである。

 それでも,教師という道を選び,教員という仕事に生きがいと責任を持って仕事をしている先生に,さらに追い打ちをかけるのが子供の親である。場合によっては40人の子供の両親80人が学校に押し寄せてくる。子供と併せて120人を相手する教員が,限界に到達するのもうなづける。

  そういう意味で,塾の教師は仕事が単純である。受験のテクニックを教えればいいだけだからである。ドロップアウトしてもそれは生徒本人の責任,合格しなくても生徒本人の責任,集団授業ならマイペースで進めればいいし,個別授業なら1対1で教えればいいだけである。受講料に基準もない。管轄する省庁もない。まさに無法地帯である。

 こうして,雑学の塊のような学生が大学に集まるため,大学の講義をキャッチアップするだけの学習能力がなくなっているという。

 東京大学が,2025年度入学の学生から学費を10万円増やして年64万円にするという。値上げによる収入増を学内の教育環境の充実に使う予定だという。これに対してすでに反対意見も出ている。

 筆者は逆に,もっと値上げすべきだと思っている。欧米の有名大学は,年間300万円ぐらいの学費である。その代わり,入学試験はなく,門戸は開いている。一方で,卒業するのは難関である。その代わり,猛烈に勉強する。そういう人材が大学で育つ仕組みになっている。

 しかし日本の大学は,入学したらあとは4年間の自由時間がもらえたようなもので,何の能力の向上もないまま,4年で卒業していく。社会人としての即戦力にならない。名門大学卒業で採用しても,使い物にならない。一方で,雑用ばかりさせられるといった不満のために数ヶ月から1年で1/3が辞めていく。

 自ら学び,自ら考えて物事に立ち向かう人材がいなくなった日本は,研究者も育たず,新しいモノを作り出す開発者,技術者も育たず,ただSNSとゲームとコミックを消費する人ばかりとなり,社会を築いていくための次の世代のことなど考える余裕すらないので,結婚を面倒だと嫌い,結婚しても子供を設けない,あるいは1人しか作らない,そしてまたその子育てすらまともにしない,という悪循環に陥るのである。

 格差社会が広がる一方で,多様性が大事だと,あらゆる多様な人物の存在を肯定し,対応していくために,社会全体がある意味で足かせをはめられて前に進めなくなっている状態にある。世の中,創造的な仕事ばかりではない。単純繰り返し作業もなければ,モノは作れないし,移動もできない。しかしそこにコストカットばかりでは労働意欲が失われ,結果としてロボットとAIだけでいいといった世界になり,人はマネーゲームか犯罪にしか向かわなくなってしまう。

 2023年夏の猛暑という気候変動で生じた2024年のコメ不足だが,この程度のことで主食のコメが足りなくなるようなら,有事で世界の流通が停まってしまったら,日本の食糧安全保障は破綻する。新米の季節になったからコメ不足が解消する,といった単純な問題ではない。だれが,どのように,コメや麦を作るのか,そこに雇用をどのように生み,生活に必要な収入が確保する仕組みをどうやって作るのか,を考えないと,本当に国が破綻してしまうだろう。

 そのためにも,公立の小学校,中学校の先生には生き生きと仕事をしてもらえるように,きちんと子供を育てられる親世代をサポートし,結婚して子供に未来を託せるような安定した収入のある産業構造を提案すること,それが今の政治の責務なのだと思う。夢に満ち溢れた子供が学校に集まれば,教員はその子供たちの能力を引き出せるような充実した教育を提供できるようになるだろう。結局は,国策で産業を育成することだが,正直言って,文系で数字に弱い今の政治家に,国を救う産業構造を提案できる能力があるとは思えない。特に,次の世代を育てる文部科学省やこども家庭庁で,金のバラまきしかできないような政治では,国は滅びるだろう。