jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

奉仕って分かりますか

最近の活動はよく知らないが筆者は小学生から高校生までボーイスカウト活動に参加していた。山もすぐ近くにあり、ハイキングやキャンプもよく行った。まあキャンプといっても今どきの流行りのチャラチャラしたものではなく、「野営」というにふさわしいものである。

   ボーイスカウト活動の1つの精神に「奉仕」がある。これも今の流行りのボランティアといった何だか親切の押し売りみたいなものではなく、街の掃除をしたり、海岸のゴミを拾ったりする辺りが定番だった。もちろん、当時は海外で地震などの災害があると、駅で募金活動をした。赤い羽根、緑の羽根募金の活動も毎年の恒例だった。

   街中のゴミの話はこのブログでも何度も書いてきた。日本人の民意の低さは驚くべきほどである。「お願い文化」という言葉を最近聞いたが、昔はお願いされたらだいたい聞いてもらえたのに対して、今はただの連呼だけが空しく響き、それがまた街の騒音になるという悪循環である。

   筆者の自宅側の通勤路は歩道が完備し、街路樹が植えられている。トウネズミモチというらしい。夏になると黒い実を大量に付け、ここにまた大量の鳥が集まって実を食べる。歩道にも大量の実が落ちる。踏むと、赤黒い汁になる。もちろん、種も入っている。

   もう一方の歩道はイチョウ並木である。こちらは秋になると一斉に葉が黄葉し、そして見事に一斉に落葉する。

   この歩道に落ちた実や落ち葉は、歩行者にとっては結構厄介である。雨が降ると滑るし、靴も汚れる。

   基本的に多少の掃除を近所の人がやってくれることを期待するのだが、掃除したとしても自分の家の前だけ、という人が多いようである。もちろん、義務でもないが、目の前にある落ち葉や実、そしてゴミが気にならないのだろうかといつも不思議に思う。

   そのうちに、黒い実は種だけを残して集まり、イチョウの葉は踏まれて粉々になるが、これも集まって山を作る。種を踏むと滑り、イチョウ葉の粉も飛んで行かない。

   アメリカに留学していたころ、ニューヨークの隣のニュージャージー州に誘われて行った。ニューヨークと違って広い庭のある一軒家がゆったりと配置されている。だいたいは道路からこんもりした庭があった。道側に塀もなく、庭の芝生を上って家に入るようなノンビリした街である。

   しかし話を聞くと、少しでも芝が伸びてくると、近所から注意されるのだという。別にお節介というのではなく、街の景観が悪くなるから、という理由だった。街にはゴミ1つ落ちていない。家の壁や屋根の色にも制限があり、街全体のイメージが壊れないように気をつけているという。

   先の芝刈りも、作業を始めるとご近所さんが手伝いに来てくれるという。自分のことだけしか考えない日本人の悪い一面を見たと思った。

   最近の日本では、点数を競ってゴミ拾いをするというゲームが行われている。イベント化や賞品で釣らなければ行動をしない。災害復興のボランティアも、何だか胡散臭い場合がある。無償の奉仕という本来の姿にみえないのである。

   都会で道のゴミを拾い始めたら際限なく出てくる。筆者は、家の前や道の真ん中のゴミは拾うことにしている。そして、どうして商品を大事に包んで守ってくれていた包装を、いとも無造作に捨てられるものだなと呆れてしまう。感謝してせめてゴミ箱にきちんと分別して入れてあげることで、飛ばされて川から海に流れ込んで海の生き物を苦しめるかもしれない行為をしないように気をつける人が増えてほしい。