jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

行政府が独走すれば法治国家ではなくなる--ただちに「国民葬」に変更し,クラウドファンディングで費用を集めることを提案

裁判官も検察官も弁護士も,「法律」を根拠にした闘いを演じている。筆者は,この建前での議論と,条文の曲解が常に気になっており,法曹界に対しては基本的に全面的に否定的である。

 しかも,法曹の資格である司法試験に合格するために,最低6年,さらに長い期間を世間から離れた世界に身を置き,社会常識を知らずに法律家として世の中に出ていく。拠り所は六法全書だけ,という偏った知識で,納得のいく判決が出されるのを期待する方がおかしい。弁護士も,金を積まれれば黒を白と言ってしまうのが仕事である。お客様の都合のいいように解釈を展開し,無罪を勝ち取る。実にあさましい商売である。

 それでも,判断の基準となる法律がそこにあることが,判断が揺らがない1つの大きな味方になっている。これが司法である。

 ところが行政府は,通常は何をするかを提案し,これを国会という立法府で議論した上で決定しなければ,執行はできないはずである。

 安倍晋三元首相の国葬が,今日2022/9/27に執り行われる。これは行政府が閣議決定した行事である。立法府である国会での議論も投票もなく,一方的に決定して進めている。これは,国会が内閣に対して不信任決議案を提出してでも議論し,採決すべきテーマであると考える。

 日本は法治国家である。正直,「法律の条文をいかように解釈しても自由」という点が裁判制度における欠点でもあるし,「法律がなければ何をしてもいい」という逆説もありうるが,少なくとも法律という1つの基準を持っている。国葬に対する法律の取り決めは戦後なくなったので,天皇以外は何となく曖昧な「国に功績のあった人」といった表現で決めてしまっているようだ。

 また,前例主義に基づいて,吉田茂元首相の国葬にならったという言い方もできるが,これも明確な説明がない。

 安倍元首相が非業の死を遂げたから,という理由も,逆に言えば「日本でも暗殺事件は起こせる」という事実を追認し,「安全安心な国」というイメージをぶち壊した事件として,国葬という名の基に永遠に歴史に刻まれてしまうという不都合があると考える。

 信念を曲げない,という強い態度は結構だと思う。人の意見を聞いて,ある程度方向修正するという姿勢も評価できる。しかし,法治国家において法律がないからといって立法府での議論もせずに行動するというのは,やはりおかしいのではないか。自分に都合のいいように法律を変えてしまう中国やロシア,そして唯一の絶対権力としての大統領制を持つアメリカと同じように独走してしまっているのではないか。これでは権威主義国家と同じではないのか。日本の首相には,それだけの権限は与えられていない。

 武道館の前に掲げられた「国葬儀会場」という墨文字で書かれた巨大な横断看板も,見方を変えればまったくインターナショナルではない。国粋主義を感じさせる。海外からの要人にも意味不明である。葬儀,献花が執り行われることを止めることはできないが,その定義を国葬からたとえば「国民葬」に変える,さらに経費は税金からではなく,クラウドファンディングで集める,という形に変更すれば,非常に現代っぽくなって世界に評価されると思うのである。