jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「長く大切に使う」ことの矛盾を改めて考えてみた--SDGsも単なる責任回避で終わる可能性

SDGs(持続可能な開発目標)が流行りである。持続可能という響きのいい言葉だが,最近,ちょっと疑問に思えてきているので,気持ちをまとめてみることにした。

 持続可能ということはゼロサムである。しかし,自然も人間が作り出したものも,エンタルピーは必ず増大する。元には戻らない。ゼロサムはあり得ないのではないか。

 太陽電池パネルは二酸化炭素を出さないとされている。しかしエネルギーの元は太陽にある。地球と太陽の絶妙な距離によって,太陽から注入されるエネルギーと,宇宙空間に放出されるエネルギーが釣り合い,絶妙な環境を作り上げた。大気が生まれ,水が溜まり,強力な太陽の放射線が緩和され,その中で生命が生まれていく。何十憶年の間,保たれてきたバランスが,人類の生み出した文明によって排出された過剰な二酸化炭素によって地球温暖化が進む中で,太陽電池パネルは太陽エネルギーの10%しか利用できないばかりか,パネル設置に伴う遮光効果による他の生物への影響があるほか,パネル製造時に必要な膨大なエネルギーやパネル寿命後の廃棄物問題を考えると,生み出すエネルギーに対して,二酸化炭素を排出する他のエネルギー(石炭火力,石油火力)を使って作り出した電力によるマイナスの効果の方が大きい。

 そこで,もう一つの二酸化炭素発生がない原子力発電所を再稼働させて,より長期間運用しようという動きが現実のものになってくる。モノを「長く大切に使う」ことをサステナブルと言おうとしている。

 しかし,モノには残念ながら必ず寿命がある。また性能の劣化もある。原発の場合,普通に使っても40年が寿命と言われているので,長く大切に使ったとしてもせいぜい+20年である。しかも,寿命を越えて使うので,性能は場合によっては半分になる。フルに使おうとしたら劣化が一気に進んで崩壊してしまうからだ。

 いわば「だましだまし」使うことになる。当然のように,部品単位では寿命を迎えて破損したり故障したりする。これを取り換えるのにはいったん稼働を止めなければならない。そのたびに稼働率は下がる。次にどこが故障するか、誰も分からない。そして突然、大崩落を遂げる。

   メンテナンスにもお金がかかる。人件費もかかるし、部品の保管にもお金がかかる。保管した部品も、サビなどの経年劣化があったりする。緊急時にすぐに使えるかどうかの保証はない。

   さらに、最初に設計した技術者はいなくなり、ノウハウの引き継ぎが曖昧になる。ブラックボックス化したシステムは、もう誰も理解できない。

   ならば、最初からスペースを2倍確保して、設計寿命が近づく1年前に立て始めて、あっさり切り替えてしまう方が安上がりになる可能性もある。古い施設も,崩壊前にきちんと解体できれば,安全も確保できる。

 繰り返し使う「リユース」も,時と場合によっては矛盾する。繰り返し使用していくうちに品質はどんどん劣化する。最初の段階なら品質は高いままなので「リサイクル」が可能だが,リユース回数が増えて品質が落ちると「リサイクル」できず,結局はゴミになってしまう。せっかくリサイクルルートがあっても,ゴミにしかならなければリユースする意味がなくなる。ペットボトル工作も,使った後は結局はプラスチックゴミとなるだけである。

 高層ビルも解体ラッシュである。1970年建設の世界貿易センターが2021年に閉館して解体が始まる。1983年に作られた赤坂プリンスホテルは,2011年に閉館してすでに解体されてしまった。わずか30年である。日本で最初の高層ビルである霞が関ビルは1968年に建てられ,すでに50年以上になるが,こちらはいろいろな意味でなかなか解体できないようである。それでも首都直下型地震が起きればかなりの被害になると見ている。

 海外ではダイナマイトの爆破によって一気に崩壊させる荒業が有名だが,日本では輪切りにしながら解体するという技術が開発され,話題になっている。いずれ,世界各国の高層ビルが寿命と迎えたときには,この日本の技術は重宝がられるのかもしれない。

 寺院仏閣が1000年以上も経っているのは,やはり50年周期ぐらいで建て替えられているからである。その技術は宮大工が受け継ぎ,その資金はこれまでは檀家の寄付で支えられ,今では観光による収入も使われている。木材を組み合わせて作られているからこそ,部品の入れ替えによって再構築が可能である。火事で消失しても,ほぼ同じものが再構築できる。

 一方,城は要塞として土台は石組み,建屋も外壁は漆喰で固められた頑丈な構造になっている。火事で本丸は消失しても,石組みだけは残る。それでも,熊本城のように大地震で石組みが崩れてしまう可能性もある。城の建設には,当時の権力者の財力が使われたが,今は単なる観光遺産であり,観光収入に頼るしかない。これからどれぐらい持つのだろうか。

 結局,人類が作った素材であるコンクリートやプラスチック,鉄などはいずれも,50年しか持たないことになる。天然素材である木材や石材も,他の素材と組み合わせてしまうと同じ寿命の間しか使われないことになる。一方で,ゴミとなったプラスチックは100年経っても分解しないと言われる。再生利用することも,エネルギー源として使うことも基本的にはできない。

 人間の便利を追及した結果生まれた物質文明によって,それを作った世代は利益を得られても,後世の人間が苦しむという結果になっている。その結果かどうかわからないが,人類は今,物質文明から仮想文明に逃げ込もうとしているように見える。バーチャルな世界,メタバースな世界の中で,物質的なものを何も生み出さずに収入を得る世界が急速に広がっている。

 バーチャルな世界は,エネルギー(電気)さえあれば永遠に使える。頭の中で考えたプログラムをコンピュータの上で動かせれば,それを使って一生楽しむことができ,しかもゴミも何も排出しない。SDGsには叶った世界と言えるかもしれない。

 しかし,そのバーチャルな世界を支えるのに必要な電力や電子機器,半導体などがどのように作られ,現実世界でどのように廃棄され,どのようにして地球環境を破壊しているかは,バーチャルな世界に入ってしまった人には関心がない。そのうち,ゴーグルを外したら自分の周辺が砂漠になっていた,なんてことが起こらないという保証はない。

 新型コロナウイルス禍が収まらないのも,地球温暖化が急加速するのも,人類の行動に対する自然からの警告ではないだろうか。先進国がいつまで経っても権力争いを続け,その結果が無為な破壊行動を続けている。宗教人は自分たちの利益を確保するためだけに政治を動かそうとして資金を提供し,政治家をコントロールし,それが国の政策に反映されてしまう。

 モノを長く大切に使うという美学が,権力や財力を握った人たちの間には通用しない。それは権威主義国の政権側であり,富裕層であり,宗教集団である。カネがあるから自分たちの便利なように何をしてもよく,モノを大切に使うといった染みったれた考えなどまったくない。この人たちが世界を動かしている以上,SDGsが単に下々のわずかな努力と自己満足で終わってしまうのではないかという危機感を持っている。

 すでに,地球を捨てて他の惑星に移り住もうということを本気で考えているらしい人たちも現れた。そのために神輿を担がされている多くの従業員がいることを本人は考えない。形式的なSDGs活動と,最後は頭を下げて陳謝して終わり,という繰り返しに見える。

 地球に優しく,しかもヒーロー的な仕事はないものだろうか。ミュージシャンやタレントが集まって募金をしても,恵まれない人への救済にはなっても地球は救済されない。

 現実には,ウクライナ紛争で需給バランスが崩れたエネルギーの立て直しのために,原発再稼働を10年と区切ること,石炭火力発電所での代替燃焼燃料としてのアンモニア製造を加速させること(製造過程で発生する二酸化炭素の処理は確実にすることが前提),そして国内での自給が可能な地熱発電と水素燃焼発電を10年以内に実現することを,日本は率先して実施すべきではないかと改めて思っている。